「緑の回廊」に挑む(topへ)
担当者のつぶやき、徒然なるままに・・・2006

 このページは、担当者個人(2005年9月現在32歳の男)の心のつぶやきというか、感じたことなどを書き殴っていくようなページの続きです。初めは、とりあえず1ページに書き殴っていこうと思っていたのですが、時間が経つにつれてページが長くなって、読みづらさが目立ってきたので、ボッソウ訪問の機会ごとに分けてた方がいいかと思い、ページを分けました。

 相変わらず、興味のある方が読んで頂ければそれで良し・・・極端な話、誰も読まない、そんな結果になっても気にしないようなページです。
 
 まじめに読むようなページではないので、緑の回廊プロジェクトに興味がある方が積極的に読むようなものではないと思って頂いてもいいと思います、悪しからず・・・

2006年1月21日

ギニア訪問に向けていろいろアドバイスを下さった立花先生にギニアの実情をご報告することになりました。おそらくは立花先生の望んでおられる情報のごく一部しか入手することができなかったと思うのですが、「さすが」とお褒め頂き・・・お恥ずかしい限りでした。しかし、立花先生が持っておられる情報・知識を少しでも吸収し、今後のコリドー計画に生かしていけるようにしなければ・・・と感じました。先生も、時間の余裕があれば行ってみたいと仰っていましたが、是非、行って頂きたいような気がします。しかし、遠いからなぁ・・・

2006年2月4日
松沢先生に緑の回廊の報告です。京大会館に行きました。一応、京都大学に一時籍を置いていた私。しかし、はじめて京大会館を訪問しました・・・はじめに、僕の顔を確認した先生はにっこり笑って、「やぁ、よくぞ無事に・・・」と、強い握手で帰国を喜んで下さいました。報告といっても、食事をしながら雑談風にざっくばらんに・・・。松沢先生に「ギニアはどうでした?」と質問されましたが、これは一言でお答えするのはむずかしく「難しい国ですね」としか答えられませんでした。しかし、「そうですね~、ギニアに行ったことがある人にしか分からないですね。」と優しく受け止めてくださいました。いや、ほんとにギニアという国は難しい国でした。文化があまりにも違ったので、そうとうカルチャーショックがあったのです、私には・・・。しかし、無事帰ってきたこと、最低限の仕事ができた(と私は思っていますが)ことを松沢先生にご報告できたことはありがたいことでした。しかし、松沢先生は、もう一度ボッソウを訪問していただければ完璧、と仰っていました。え?もう一回ですか・・・たしかに数年経ったらもう一度訪問して、「どうなったかぁ・・・」というのも良いかと思ったのですが、近いうちに、という雰囲気。ま、でも松沢先生のご希望とあれば、会社は「行ってこい」と言うだろうし、そうなると行くしかないのが会社員の務めかと・・・

2006年3月14日
ギニアからIREB所長のクルマ氏が京都へ来られました。今日は京都府立大学の学長との会談ということで、私の出番は全くないものと思っていたのですが、府立大学の牛田先生が用事があってもしかするとクルマ氏と学長の会談に立ち会うことは無理かも知れないということで、私もご一緒させて頂くことになりました。もちろん、通訳としても何にしても全く役に立てないのですが、通訳をお願いしていた前堀さんを一人にすることもできないと言うことで、それだけの理由で立ち会わせて頂くことになりました。今日はそれだけ・・・

2006年3月15日
昨日から京都に居られるクルマ氏をホテルまで迎えに行って、今日は京都府立大学と京都府の研究施設、京都府立農業資源研究センターの見学です。クルマ氏は農業の専門の方なので、是非みてもらったら・・・ということだったのです。試験場を熱心に見学されたクルマ氏を今度は大阪の弊社へ案内。年末から年始にかけてのボッソウ訪問についての話と、弊社の技術紹介、今後の参考にして頂くことなどをお話しして、大阪駅までお送りしてお別れしました。そのときに、クルマ氏が、今年ヘキサチューブを設置するときに是非とも私に来て欲しいと言われ、これが決定打となってまたボッソウに行くことになしました。もちろん、本決まりではないと思うのですが、ま、決まりなのでしょう・・・

2006年4月23日
松沢先生からメールを頂きました。2005年12月中旬から2006年1月にかけて一緒にギニアに行って頂いた牛田先生宛のメールの転送です。そこにはそろそろ日程を決めましょうか・・・の一言が・・・。やはり今年行くのか?あのギニアへ・・・

2006年6月17日
ヘキサチューブのボッソウ到着の頃合いから考えて、7月頃にギニアに行くことになりそうだったのですが、コナクリの情勢が不安定になったとのことで、渡航が延期になりました。そういえば、この前ギニアに行ったときに選挙があったから・・・アフリカって選挙の前後って不安定になるってよく聞きますからね。

2006年7月26日
松沢先生からまたメールを頂きました。8月25日頃に山越先生という先生がボッソウに行かれるとのことです。ど同行せせて頂くか、11月末のボッソウ30周年のシンポジウムの時に行くか・・・二択。乾季のギニアはもう観てしまったので、できれば雨季の様子を見てみたい。そうなると、答えは一つ。山越先生に同行させて頂くほかありません。これで決定ですね・・・

2006年8月5日
いよいよギニアへ再び行くということで、追加で予防接種をすることにしました。前回の予防接種は高槻予防接種センターというところでしてもらったのですが、大阪検疫所のホームページを見ると、案内が消えていたのです。あの若くて美しくて、注射が痛い先生がいた高槻予防接種センターがないのです。仕方がないので、近くで予防接種をしている病院を探しました。奈良公園中央病院。
インターネットで検索した結果、ここでは様々な予防接種をしていることが分かり、電話で問い合わせると、必要なワクチンはいつでもあるので診察時間中に来てもらえれば特に予約も要らないとのことでした。そういうことで、今日行くことにしたのです。行くと、電話で対応してくださった薬剤師の女性が早々に出てきてくださり、相談に乗ってくださいました。お年は僕よりも10歳程度上かな?とても声が若くて、感じの良い方でした。親切、丁寧な言葉遣いで、フレンドリーな雰囲気。そして正直に対応してくださいました。
破傷風の予防接種を昨年は2回行っていたのですが、追加で行うと10年近くは安心だということで、今回接種してもらう予定にしていたのですが、この年だと、もう追加は必要ないでしょう、といわれやめることにしました。商売よりも患者の体調を。当たり前だけれど、なかなかできないこと。また、メファキンなどもここで買うと高いので、他で買っても良いと思います、とも言われました。予防接種を行うのは内科の先生なのですが、「問題があればすぐに呼んでもらうようにしているので」といいつつも、問題もないけれど、途中で様子を2回ほど見に来てくださったのです、薬剤師の方が。ほんとに、とっても気持ちの良い方でした。

ギニアに再び渡航するための準備を徐々に進めている今日この頃です。ビザ獲得のために英文身元保証書なるものを作成しました。その身元保証書には、現地での行動に責任を持ち、金銭について保証する旨を記載。日中連絡可能な電話番号も必要。英文サインと捺印。今回は観光ビザで入国することになるので、必要となったのかも知れません。しかし、日本語でも身元保証書なんて作ったことがないので、結構苦労しました。それでも、インターネットで調べれば何とかなるもので・・・タイへ留学したりするときには英文身元保証書が必要になるらしく、タイ留学のための例文がたくさんありました。それを、ちょちょいと手直しして、親父にサインと捺印をしてもらいました。これで、あとは旅行会社に郵送すれば手続を進めてくれるはず・・・また、ギニアが一歩近づいてきました。

2006年8月24日
いよいよ明日にはギニアに向けて出発となりました。なんだか、前回以上に実感がありません。一度行ったことある場所だから、以前ほど緊張していないということがあるからか・・・前回ほどの衝撃はないだろうなぁ、とも思います。が、またあのカオス、混沌に飛び込むのかと思うと何ともいえない気持ちにはなります。とりあえず、前回と同じく、無事帰ってくることを最大の仕事と考えて行ってきます

2006年8月25日
関西国際空港を定刻通り、12時15分に飛び立ったエールフランス、AF291便。キャンセル待ちの状態だったのだけれど、パリ、シャルル・ド・ゴール空港直通の飛行機に乗ることができました。当初の予定ではアムステルダム経由だったのだけれど・・・乗り継ぎのリスクは少ない方がいいに決まってますからね。ただでさえ、よく知らない土地に行くのだから・・・また、よく考えてみると、一人っきりで海外に出るのは初めてのことだったのです。フランス入国カードを機内で配ると行っていたのに、いっこうに手元にカードが来ない。どうなっているのか・・・不安。しばらくすると機内放送で数量が足りなくて全員にカードが行き渡っていないが、空港で入手して記入するということになったらしいです。
パリ時間17時10分、パリ、シャルル・ド・ゴール空港に無事到着。入国審査のゲートへ向かっても入国カードが置かれていないので、どこかのツアーの搭乗員らしき日本人に入国カードがないのだけれど、と尋ねると必要ないと言われました。本当?不安がふくらみます。半信半疑で入国ゲートに行くとあっさりと入国が認められました。しかし、入国してしまってから何気にパスポートのページを繰っていると、今回のフランス入国のスタンプがないことに気付きました。そういえば、さっきスタンプを押している様子はなかった・・・いまさら入国ゲートに戻るわけにも行かない・・・不安は益々広がっていきました。

2006年8月26日(土)
朝目覚めるとパリは雨でした。そういえば前回はボッソウで明け方に一度雨が降っただけで(ギニアは乾季だったので当然かも知れないけれど)雨には縁がありませんでした。今回のギニアは雨季。前回のようには行かないという暗示・・・?
パリの朝は寒いと言っても良いくらいでした。朝食をとっていると外の様子が見えたのだけれど、ジャンパーを着ている人が少なくない。半袖でいたのだけれど、コナクリに着くと蚊に襲われる危険性もあることも思い出して長袖に着替えることに・・・。ドゴール空港を発つのは15時55分予定。チェックアウトをぎりぎりの12時にしても良かったのだけれど、することもないので10時半頃にはホテルを後にしました。空港に着いたのは11時前。出国手続きを済ませてから昼食をとって、飛行機への搭乗を待つことに。搭乗場所である2Fターミナル45番で本を読んでいると、搭乗時間近くになって、日本語で声を掛けられました。山越先生でした。お会いしたことがなかったのでインターネットで写真を探したのですが、分からずじまい・・・どんな方かと心配していたのですが、物腰が柔らかい感じの先生で、一安心したのは言うまでもありません。
コナクリに着くと、以前ほど出迎えに不正出国している人はいなくて、何となく整然としており、少し拍子抜け。入国すると複数の人々が山越先生を出迎え、挨拶しに来られる人々が・・・。その中には空港職員がいるらしく、荷物をランクルに積み込んだ後、自由に空港内を行き来する・・・トイレに行きたいといえば、国外(入国ゲートの外)のトイレに案内されるなど・・・ことに。こんな事でいいのかと不安を覚えることもありましたが、ま、先生も一緒だし・・・その後は、京大の院生の人と合流するために、ダカール空港からの飛行機を待っていました。22時過ぎにその飛行機が降り立って程なく、例の空港職員から彼女が無事到着したことを伝えられ、合流することができましたた。今日ここで合流できなければ大変なことになるところだっただけに、胸をなで下ろしたのは山越先生だったというのは言うまでもありません。


2006年8月28日(月)
科学技術庁に行ってOrder de Mission(調査指令書)をもらいに行きました。昼食後に薬局に行き、マラリア予防薬を買う。その後、日本大使館を訪れる。どうやら大統領の体調が思わしくないらしく(随分前かららしいけれど)、万が一彼が死んだ場合クーデターが起こることも否定できないとのことで、短い滞在にもかかわらず滞在記録を書くことになりました。コナクリに帰ってくるときには、情報を仕入れてから帰ってきた方がいいかもしれないとも言われました。恐ろしいことだ・・・その後、医務官がもし時間があれば話をしたいといっているらしいので、話をすることになりました。彼は6月からコナクリに来ているらしいのだけれど、大使館内の日本人以外の人とコミュニケーションをしたいと言うこともあったのかも知れません。ギニアにいる日本人というのは限られていますしね・・・ボッソウでの活動の概略を山越先生がし、コリドー計画についての概略をボクからお話しさせて頂きました話した。ちなみに現在の所、為替は1USD=6000FG。前回は1USD=4400FG程度だったと思うから、結構物価上昇が激しいことが感じられました。そのために情勢が不安定になっていると言うこともあるかも知れない、と山越先生。たしかに、こんな勢いでインフレが進んでいては、国民はたまったものじゃぁないです・・・給油して、ホテルに向かうことにしましたが、ちなみに1リットル=5500FG。この前、1リットル=3800FGだったことを考えると、少し高いです。レートが変わっていることを考えても少し高いです。その分、人々の収入も増えていれば問題はないのだけれど、決してそんなことはないので、危険度が上がっているのは間違いないかも知れません・・・

2006年8月29日(火)
7時半にホテルを出るということになったらしいので、朝食を6時半に早めてもらいました。ホントは7時からしかやっていないらしいのですが・・・。朝食を済ませて、荷支度をし、7時半にロビーへ。そしてチェックアウト。最後に調査指令書をコピーして8時15分に出発しました。10時頃にはコヤー(Coyah)を通過(ここはミネラルウォーターの生産地であり、その地名がそのまま商品名になっている)。道中すごい雨で、道路が所々河のようになっていました。どこまで道路があるのかが分からない状態です。溝に片輪を落としてしまって動けなくなり、放置されている車もある。ランクルじゃなければきっと浸水しているに違いない。それくらいの水位になっています。10時半頃になると嘘のように雨も上がりました(もちろん移動していると言うこともあるのだけれど)。11時半、キンディア(Kindia)という街を通過。12時半に昼食。この前、屋根の上でハゲワシがガタガタ歩き回っていたあの食堂。もちろん今日もハゲワシたちは残飯をねらってウロウロしています。今回は、牛田先生が最後まで拒否していた汁かけご飯。いわゆる現地食です。食器を洗っているあの水(使い回して濁っているのです)のことを思うとほとんど食べられませんでした。13時10分、食堂を後にした。13時40分、憲兵が小遣い稼ぎに自主的に(勝手に)検問をやっていた。政府の調査指令書もあるので問題なく、パス。道中、道路の補修を行っているのを数カ所で見かけました。場所によっては転圧機まで出動しています。金の出所はどこだか分からないけれど素晴らしいことです。16時40分ファラナ(Faranah)を通過。トラブルがなければ早いものです。この前はパンクもあったから相当暗くなってからの到着でしたから・・・。18時半、キシドゥグゥ(Kissidougou)のホテルに到着。明日の出発に備えます・・・

道中の様子です。川のようにみえますが、これはれっきとした道路。集中豪雨のために泥水が流れています。流れの深さは膝の高さ程度でしょうか・・・。恐ろしい勢いで水が流れ、ゴミなどを海へと押し流していました。

幹線道路もこの通り。側溝もみえないので落ちてしまっている車もありました。普通のセダンでは車内はきっと水浸し。ボク達はランクルに乗っていたのでそんなことはありませんでしたが・・・

山の頂上からは水が滝のように落ちていました。乾季の時にはもちろんこんな滝はありませんでした。これだけの雨が降っていたと言うことです。乾季になると全く雨が降らない時期も長いのですが、この雨はこういった森林にとってはまさに恵みの雨。この水分を頼りに乾季を乗り切っていくのですね。植物の生命力には驚かされますね。

2006年8月30日(水)
明け方に豪雨、さすがに雨季です。それにしても朝晩は結構涼しいのです。アフリカに来て涼しいというのが変な感じであるけれど、涼しいのです。明らかに日本の夏よりも過ごしやすい感じです。朝8時半にホテルを出発。ここからBossouまでの道のりは厳しいということで昨日の間に、できるだけボッソウに近づいておこうと言うことで、この地に一泊したのです。舗装されていない道路が多く、また舗装されていても舗装がはがれて役に立っていない場所が多いからです。道中は道が悪すぎて、自分の体を支えるのが精一杯で写真すら撮れない状態でした。油断していると、ガラスに頭をぶつけてしまう(実際に何度か窓硝子に頭をぶつけてしまった)のです。12時20分、Macenta(マシェンタ)を通過。N'Zerekore(ンゼレコレ)まであと138km。14時ンゼレコレを通過。14時35分にLola(ローラ)に到着。ここまで来たらBossouに着いたも同然です。清野さんの実験用の蜂蜜をここで購入しました。ただ、この蜂蜜、恐ろしい。ホーローの鍋に蜂の巣ごと蜂蜜が入っていて(ま、ここまでは許せる)、それを小皿ですくって(この辺りから怪しい雰囲気がある)、びんに入れる(このびんは別の店で購入してきたものだけれど、何処で手に入れたのか分からない。もしかするとその辺で拾ってきて洗ったものかも知れない)。びんに蜂蜜を入れる際に、どうしてもびんの外に蜂蜜が垂れる。これを汚い雑巾で拭いたり、手でぬぐったりしているのだけれど、その手を店のおばちゃんがベロベロなめるのです。その手でまたびんを拭う・・・この蜂蜜だけは絶対に口にしないと誓いつつ、15時にローラを後に・・・。
15時半、ついにBossouに到着。研究所に滞在していたタチアナは開口一番、「チューブの現場のフォローをIREBは全くしていない」と怒り心頭。せっかく良いチャンスなのだからと、ンゼレコレの大学の学生か何だかにデータをとらせていると話していました。話によると80%位は残っていて、なかなか良い状態らしいです。早く自分の目で見てみたいと希望がふくらみます。
夜になると発電機(ジェネレーター)を動かして、サロンに照明がともります。前回はビデオのバッテリーの充電、カメラバッテリーの充電、パソコンの充電、無線機の充電などでとても照明まで余裕がなかったのだけれど、今回は無線とパソコンだけらしく、照明がともるらしいのです。ロウソク生活をしていた前回と比べると相当文化的な感じがします。しかし前回に来たときに活用していたガスコンロは使えなくなっていて、代わりに灯油のコンロが置かれていました。まるでキャンプ・・・この地ではものを壊さず使い続けるというのは難しいのかも知れません・・・

道中の休憩中、道路の様子をと思って撮影した写真です。ちょっとわかりにくいかも知れませんが、道路中央に大きなくぼみがあるのがみえます。ここはまだそんなに傷んでいないのでこの程度ですが、ひどいところは避けようがないくらいあちことで道路がくぼんでいたりします。また水を含んでいる泥はオイルのようで、スリップします。坂道で動けなくなっている自動車もたくさん見かけました。雨季の移動は大変です。

道路がすり減って、大きくくぼんでしまっています。その深さは1.5m以上。大きなトレーラーや普通のセダンではこういうポイントを通過するのは困難なのです。そのため道路の修復をしているのです。近くの村人達が税金を納める代わりに労働で貢献している、というのを後に聞きました。唯一の長距離移動の交通手段が自動車。どうろはまさに奥地の人々にとっては命綱ですから・・・

2006年8月31日(木)
午前中にTuo(チュオ)(リベリアとの国境近くの街)の警察に届け出に行かなければ行けないので、山越先生と出かけました。しかし、理由は分からないけれど(たぶん署長がいないのだろうと思う)空振りに終わりました。
午後からはグリーンコリドーへ出かけました。ンゼレコレの学生も3人一緒に現地に向かいました。最もボッソウに近い現場から行くけれど、ネピアグラスが相当繁茂しています。草丈は2mを超えている。聞くとチューブを設置した直後に草刈りした後は全く何もやっていないらしい。年に3回は草刈りをしていると聞いたのだけれど、この調子だと年に1回草刈りをしているかどうか怪しい・・・案の定、植栽した木々の成長はあまり良くありませんでした。よく生きているというのが感想です。そのすぐ近くに元々マニオク(キャッサバ)畑だった現場があり、そこに行くと早くもチューブから頭を出している木が数本見えます。これは驚きでした。Uapacaの仲間だけだけれど、異様に成長が早い(2003年に植栽したという場所を後日観に行くことになるのだけれど、せいぜい樹高は1m程度でした)。あとはSeringbara(セリンバラ)に近い現場に行ったのだけれどこっちは本当に良くない。現場の近くは前回訪れたときに(乾季)すらぬかるんでいたし、今回に至っては水がたまっている。そのすぐ近くにある現場の成績は本当に良くなかった。土を掘り返してもまるで水田の底の土を掘っているような感じの粘土質で、根の成長にとってはとても良い環境とは言い難い。耕耘していないから尚更である。そこからさらにセリンバラに近づいていくと(水たまりから遠ざかる形になる)少しずつ成績は良くなっているようだ。少しずつ乾いているのだろうと思います。その現場の近くには火が入れられた跡があり、聞くと、通り道を確保するためにセリンバラの人間が火をつけたと・・・。チューブも数本は溶けて変形して、もちろんなかの樹も枯れていました。残念なことではあったけれど、この程度で済んでいるというのは喜ぶべき事かも知れません。

2006年9月2日(土)
朝食(パン)を食べて8時過ぎにコリドーへ向かいました。ボッソウに近い現場から順番に土のサンプルを集めるためです。地面がものすごく固くなっていて、掘るのに大変苦労しました。植栽するときに現地の人はザクザク何気なく掘っていたので割と柔らかいのかと思っていたらとんでもない。最後には手にマメができてしまった・・・こんなに固い地面だと植栽された木々の成長に良いはずがありません。耕耘したりしているところの成績が良いのではないかと思われますが、土地の履歴はよく分からないというのが現実です。ただ、掘った感覚から、地面が硬いところは木々の成長が良くない感じがするので、農作物を作るという口実で耕耘するというのはとても良いことなのではないかと感じました。

2006年9月4日(月)
14時過ぎから、清野さんがサバンナのアリを集めたいというのでコリドーへ案内することにしました。道中、サスライアリというアリ(前回、ニンバ山ツアーの帰りに川のように流れを作って歩くアリの写真を撮ろうして、野上さんが襲われたあの仲間のアリ)を見つけると、清野さんはおもむろにサンプル瓶を取り出し、右手にピンセットを持つと、そのアリの川の中にピンセットを突っ込んで採集を始めました。前回の野上さんが襲われていることを思い出すと恐ろしく、微妙に後ずさりしてしまう・・・しかし、よく見ると清野さんは襲われていないのです。きっと清野さんはアリにとってとてつもなく恐ろしいものに見えたに違いない・・・その後もサバンナで様々なアリ(トゲアリだとかシリアゲアリ(このアリにもひどく咬まれた)だとかオオアリだとか)を採取し続けていました。それにしてもアフリカのアリは(特に肉食性のアリ)は足が長くて、とても歩くのが速いのです。ピンセットで捕まえるのは至難の業に思えます。
しかし、慣れたもので苦戦しながらも着実にサンプルを集めていきます。何が面白いのかと思ってみたいたのだけれど、よくよく見るとアリも様々な形をしていて、様々な生活・行動パターンを持っているらしく、見ているとそれなりに面白いものですね。昔、カブトムシやクワガタを採取していたのと変わらないのかも知れませんね。帰りにはシロアリの婚姻飛行を見ることができました。
ちなみに、サスライアリのような肉食系のアリは、土中に簡単な(普通アリの巣と言えば、たくさんの部屋があって、細い廊下で互いが迷路のようにつながっている巣を想像すると思うのだけれど)巣を作るらしいですね。大きな穴を一個作って、その中にうじゃうじゃ固まって数日間過ごすそうです。サバンナを歩くときにぼっそりはまってしまうと、アリ大群(というよりも固まり)に足を突っ込むことになるから気をつけなければ大変なことになってしまう・・・しかし、こういった虫の仲間がサバンナの地面を地道に耕耘していると言うこともあると思います。こういうきっかけがある場所にタネがあったりすると木が育っていくのではないかと思います。

この写真はサスライアリなどが作っている行列です。頭が大きなアリには大きなアゴがあって、まるで小さなクワガタのようです。このアゴで噛みつくのでたまりません・・・こんな恐ろしいアリをつかまえていく清野さんって・・・

2006年9月5日(火)
6時40分起床。パン(フランスパン)を半分食べて8時の出発に備えます。多くの人々がバラバラと集まってきます。今日からチューブの設置が始まるのです。直前に、山越先生とクルマ所長は設置費用について交渉。前回は日当だったのだけれど、今回は歩合制にしたらしく、2400本の設置で200ドルになったと聞いたような気が・・・。ランクルとIREBのピックアップStyleのジムニーに650本分の資材を積んで、例によってあり得ないくらい人を乗せてコリドーへ向かいます。ジムニーは押しがけしないとエンジンが始動しないらしく、数人がジムニーを押して走っています。修理に出すたびに原型からかけ離れているらしいから仕方のないことだと思います。逆に言えばよく動いていると言っていいんじゃぁないかな・・・。現場に着くと、すぐさまチューブの組み立てに取りかかる。できあがったチューブをどんどん植栽された木々の横に置いていくが、今回は全ての植栽木にチューブの設置をするのではないはず・・・説明を聞いていなかったらしい。現場監督の指示も仰がずに動くから無駄ができる。今度はベースデータをしっかりととるつもりらしく、樹高を測定するチームも1チーム作られていました。次にチューブに樹高マークとナンバーを書いていくが、丁寧に枯れた樹にまでチューブを設置しています。それを外しながら作業を続けました。もちろん、これは間違いなく枯れてしまうだろうという衰弱しきった木に被せてあるものも外して歩く。昼休みにはヨップルをコップ一杯飲んだだけで、作業を続ける。
昼を過ぎてチューブを外すなどの作業を続けていると、「アタン、アタン」という叫び声が聞こえてきます。何を待つ必要があるのかと思うと、「生きている」って叫んでいるのです。確かに生きているけれど、今は生きているという状態である、少なくともボクにはそう見えました。葉は枯れ、葉を落とし、幹(むしろ軸)だけになっています。しかも先から枯れ下がってきています。それでも彼らは
「生きている。大丈夫だ!」と主張。「マジで?」と言うと「ああ!ほんまや!!」と怒鳴られました。折角設置したチューブを外すなと(歩合制だから、外されるとその分損をするのだから)ということなのでしょう。数量をこなせばいいと言う形の仕事も善し悪しだと感じました。難しいものですね・・・

生きているって言われても・・・これは多分枯れていると思われる苗木。こんなものをたくさん植えても仕方がないと引き抜いたのですが・・・この行動がもめる原因になってしまったのです。でも・・・ね。

確かに、彼らの言う通り、小さくても生きている苗木はありました。しかし、この小ささではサバンナの厳しい環境を乗り切れないのではないかと・・・しかし、彼らはこれまでこのようにしてきたのだから大丈夫だと主張します。ま、今回初めて苗木を植えるところから参加させてもらったので、とりあえず様子を見ることにはしますが・・・果たして結果はどのようになるのやら・・・

2006年9月6日(水)
今日はマルシェだというのに作業を続けます。ランクルが今日から使えないので、トラクターに資材と人を満載にして現場へと向かうことになりました。ボクは昨日言い争った現地の人間のバイクの後ろにまたがって現場へ行くことに・・・。途中、振り落とされはしないかと思ったのだけれど、さすがにそこまですることもなかったです。トラクターはトロトロとNyonを過ぎてコリドー径へと入り、ボッソウ(ゲイン山)に最も近い現場の横をすり抜けてネピアをかき分けて進んでいきます。ボッソウから近いからここまでは歩いてきても良いとは思うのだけれど、誰も歩こうとはしないところがギニアらしい・・・ボクはバイクにまたがってネピアの株の上をぼこぼこと乗り越えていくものだから、周りを見ている余裕もない・・・。しばらくするとトラクターが止まる。荷物を下ろして、その荷物を頭に載せて人々がドンドン移動していきます。ボクもついていこうとするのだけれど、研究所の守衛?が話しかけてきたものだから、ついて行けなかったのです。しかし、いつまでも話していても仕方ないので、現場へ向かうことに・・・。ネピアをかき分けて歩いていくとしばらくして川にさしかかりました。でも、橋がない・・・川にぷかぷか10cmから15cm幅くらいの板が浮かんでいるだけです。どんなセンチュウやどんな菌がいるか分からない川の水にじゃぶじゃぶ入っていくのはとても気持ちの良いものではありません。でも、ここを超えないと現場にたどり着けない・・・。仕方がない・・・「じゃぶじゃぶ・・・」支えがないから踏むと当然板は沈みます。意味がない・・・と思っていたのもつかの間。板から足を踏み外すと、「ズブズブ・・・」と足が沈んでいくのです。川底がぬかるんでいるか何かで、そのまま歩いたら沈んでしまうから板が置いてあるのです。何とか川を渡り、ネピアをかき分け、河畔林を抜けて現場にでると、ここは一体何処なのだろう・・・???場所の特定にしばし時間を費やすことになりました。全く、GPSを持ってくればこんな事にはならなかったのに、忘れてしまったのです。出かけるとなると何か忘れる。悪い癖です・・・場所の特定が終わると、チューブの組み立て、設置、樹高マークの書き込みを行います。この現場はコメとマニオクを栽培している農地らしい。背の高い前歯のない兄ちゃんが「ここはオレの畑なんだ」と自慢。たしかに良い畑だと思いました。その後、作業中に背の高い前歯のないその兄ちゃんが「助けてくれよ」と声を掛けてきました。何かと思えば、「今週の月曜日にばあちゃんが死んだんだ。100歳近かった。大変なんだよ。気持ちだけで良い。2000円で良い。日本人は金持ちなんだろ?」・・・2000円といえばこっちの人たちの半月分近い収入です。そんなお金をホイホイ上げるわけにはいかないし、しかも、百歳近くまで生きたのだから天命を全うして幸せだったのでは・・・?「君はこんなに良い畑を持っているし、家もあるんだろ?ボクは家もないし畑もない。日本人だって多くの人間は苦労しているんだ。だからあげられない」といって断りました。作業は続くが“かけや”が一つ足りずにはかどらない。昨日作業を始める前には5個渡したはずなのに、4個しかない・・・。作業員は「ハンマーが一つ足りないので作業がはかどらない。何とかして欲しい」というが、なくしたのはボクじゃないのに・・・昨日の現場に置き忘れているに違いないので、探しに行くといって、道案内を一人つけてもらって探しに出かけることになりました。ネピアが繁茂する中をかき分けて、かろうじて径らしき径を探して歩いていくギニア人。気が付くと、ボクのベストがボロボロになってきているじゃないですか。ネピアは葉に毛が付いていて、この毛が結構固いのです。葉も固くて、半袖なんかでこの中を歩くと血だらけになりそうな代物です。実際に、肌が露出した部分には切り傷がたくさんできていました。必死の思いで昨日の現場に着くと、“かけや”を探して回ります。しばらくすると、「ピーピー」と鳥が鳴くような声が・・・。何か獣がいるらしいなぁ・・・。ふと気付くと、道案内に来ていたギニア人が「Viande(ヴィアンドゥ)っていう獣だ。まだ子供だけれど」といって握りしめていました。一体いつの間に捕まえたのか・・・イタチのような獣だが、爪が長く、土中で生活している獣なのかも・・・。こんなものを簡単に捕まえてしまうなんて・・・だからこのサバンナには獣がいないのか・・・???牛田先生が言っていたようにもしかすると大きな動物はみんな食べられてしまったのかも知れないなぁ・・・。もしかすると、昔はここにキリンやシマウマがいたのかも知れない・・・ここの人々は骨まで食べてしまうから、昔生息していた動物の痕跡を探すのは大変かも知れないなぁ・・・それはさておき、何とかかけやを探し出して、そのかけやを作業中の現場に持って帰ってもらうことにして、(そういえば、彼は帰りしなには手ぶらだった。きっとビアンドゥはポケットに入れられたのだ。この日の夜の食卓に上がったに違いない・・・)ボクは、かけやが置き去られた現場に残って、昨日残した樹高マークの書き込みとナンバリングを行うことにしました。中途半端に仕事を残していくことを何とも思っていないらしい現地の人々につき合っていても仕方がない・・・。せっせと作業をしていると、樹高測定チームがやって来ました。測定チームの一人が「今日はみんなは酒を飲んだのか?俺たちは呑んでいない」と文句を言ってきました。仕方がないので1000FG札を2枚渡すと、(20数人の酒代(2日分)として16000FGを山越先生が渡したと言うから、それからすると渡しすぎではないかと思うくらいだけれど)「俺たち3人なんだけれど・・・」要するに、3000FG渡せと言うことなのでしょう。「要らないなら返してもらっても良いけれど・・・」とちょっと冷たく突き放すことに・・・「いや、そんなつもりじゃない」といってニヤニヤしている。困ったもんです・・・。彼らは休憩し始めるが、それを尻目にボクは作業を続けることにしました。植栽された木々の列は途中でなくなったり、途中で横の列と合流していたりとかなりややこしい状態になっています。別に、幾何学的に植える必要はないと思うけれど、中途半端に幾何学的になっているから余計にややこしいのです。やれやれ・・・何とか作業を終え、元来た道を戻ろうとするのですが、何処を歩いてきたのか分からない・・・。下手に無理矢理歩いていくと迷子になりそうなので途中で諦めて、遠回りではあるけれどコリドー道(車が通れる通り)に戻ることにしました。道中、遠くで雨が降っているのが見えたので急いで戻ろうと努めるけれど、ダメでした。ひどく降られ、全身ずぶぬれに・・・カッパはリュックに入れたままで、戻るべき現場に置いたままに。やれやれ・・・何とか現場に戻ると、驚くべき事にまだ作業を続けているではないですか。全員ではないにしても作業を続けていると言うこと自体が信じられない・・・。どうやってもボクたちがいる間に規程本数を設置してしまいたいらしい・・・。もう16時を過ぎていたのに、すばらしい。しかし、作業がはかどらないのは変わりない・・・。好き勝手にランダムにチューブを設置していくものだから、あちらこちらに抜けがあって、そこにチューブを設置していく上に資材の移動も気分で行うから、あっちこっちで「ピケー!!(支柱のこと)」とか「チュー!!(チューブのこと)」とか叫んで立って待っているのです。自分で取りに行けばいいと思うのだけれど、そんなことはしないのがギニア風なのでしょうか。そういえば、雨でボクのリュックはずぶぬれになっているんじゃないかと思って「ボクの荷物は?」と聞くと一人の作業員が「ボクが背負っている」ボクのリュックを背負ってその上からカッパを着て作業を続けていてくれたのです。彼は熱心だし、とても優しい・・・前回、ボッソウを訪れたときには皆にからかわれていたという印象しかなかったのだけれど、彼が優しいから文句をあまり言わないし、文句を言っても親権に取り合ってもらえないと言うことが原因なのかも知れないなぁ・・・。18時半まで作業を続けて、それで今日の作業は終了。ボッソウまでは歩いて帰ったのだが、その作業員は何かと英語でボクに話しかけて退屈しないように気を遣っていてくれた・・・。ひどい一日だったけれど、少し救われたような気がしました。

【仕事の備忘録】
ところで、今日の現場は植栽間隔が狭められていた。
これまでは5m間隔で植栽されていたのだけれど、前回の訪問時に、早く木を大きくして早く林冠を閉鎖させてネピアグラスを被圧した方が成功しやすいのではないか。
例えば2m間隔にするとか・・・
とクルマ所長に提案したのだけれど、その提案を実行していたようだ。

疲れて帰った日に限って夕食がつらかった・・・ネズミの臭いがするのです。翌日確認したところ、ある実を使ったのだそうだが、臭いが強く、その臭いがネズミに似ていたのです。さすがに去年食べたネズミそのものよりもずっと臭いは少なかったけれども、とてもじゃないけれど食べられなかった・・・清野さんも「これは食べられない・・・」といってギブアップしていました。コナクリでは「楽しみ~♪」といっていたけれど、本当のネズミはとてもじゃないけれど一口も食べられなかったのではないかと思いましたね・・・。結局、昼食べなかった分のラーメンを食べて寝ることにしました・・・

2006年9月7日(木)
昨日の帰りが遅かったからか、朝に給料をみんなもらって村に朝食に出かけていきました。朝食の後に現場に行くから・・・とクルマ所長。何かしら余裕を感じました。
しばらくするとクルマ所長に呼び出され、行くと、「今日は設置ではなくて、測定の方を手伝って欲しい」とのこと。測定ならみんなより早く行っても作業はできるので一足先に現場へ行くことに。道中、飼い犬だろうと思うけれど、ボクの後を犬が付いてきました。後になり先になり、ボクと一緒に歩いていこうとするのです。犬は気分良く歩いているようだけれど、狂犬病の予防接種なんか絶対にしていないはずだ・・・ボクも今回は狂犬病の予防接種はしていないので、気が気ではない・・・。発病したら100%死です。しばらくすると、飼い主らしき人の声が後ろから聞こえ、犬はこちらをチラチラ見ながら戻っていきました(ホッ・・・)現場に着くと、樹高マークを付けて回るが、チューブを被せた木や被せていない木がランダムにあるので、嫌な予感。後からやって来た作業班があちらこちらにチューブを設置していくから、マークを付けたチューブとつけていないチューブが混在することになって、結局大変な作業になってしまいました。どうして効率的に仕事ができるようにしないのか・・・やれやれ。結局、ナンバリングもできないし、マークを付ける作業も全然はかどらないまま、15時頃に設置が終わり、帰ることになりました。残って作業をするといったのだけれど、一人で残るとここは村から遠いから危険だといわれ断念したのです。帰り道はこれまでの道とは異なる道でした。森林の中を抜け、アブラヤシ畑(というよりも林)を抜けて帰りました。途中、川に橋が架かっていたが、大きな木が倒れて川を渡しているだけのもので、濡れているので滑りやすく、こわい橋・・・。その橋をサンダルで、頭に荷物を載せてひょいひょいと歩いていくギニア人。う~ん、さすがだ・・・まったくどんなバランス感覚をしているのか。こういう人たちとスポーツでまともにやり合ったらそりゃぁ負けるなぁ、と。アブラヤシ畑の中には、ヤシ油を煮出す作業場もありました。3段階から4段階の工程を経て油を抽出するらしいけれど、畑でその作業をやってしまうのはさすがにアフリカっぽい気がしました。研究所に戻ると、IREBの連中は、ベースデータを書くためのノートがないから新しいのが欲しいというので明日の朝に渡すことに。また、コンベックス(巻き尺)が壊れたから作業があまり進まなかったといって新しいコンベックスを要求。それくらい買えばいいのに・・・明日の分はボクが持っているからと行って別れました。その後、水浴びをして、洗濯を済ませ、本を読んでいたのだけれど、本もそんなに読み進まないうちに眠っていました。疲れていたのでしょうね。
夜になると、タチアナはキノコを手に入れたと行って料理してくれました。ニンニクで香りを付けて、醤油・胡椒などで味付けしたもので文化的な味がする料理を久し振りに食べたような気分でした。簡単なものだけれど、とてもありがたかったなぁ・・・

これがアブラヤシからヤシ油をつくる作業場、鍋や火を熾す穴、そして残骸のアブラヤシのタネ(写真の鍋手前に落ちている黒いゴミのようなものがアブラヤシのタネです)。こんなところで地道にヤシ油を作っているとは・・・

2006年9月8日(金)
いよいよボッソウも実質最終日です。樹高(苗高)をまだ測り終えていないし、そのことを昨日報告すると「また明日」とクルマ所長にいわれたので8時に出かけられるように準備していたのです。しかし、予定されていた2400本の設置が終わったらしく、IREBのメンバーはすっかり仕事が終わった気分でいるじゃないですか。作業服ではなくて完全に普段着でウロウロしています。「ノートが足りない」「コンベックスが壊れた」と行っていた作業員ですら普段着。ボクが準備しているのを見て、「なぜ???」という表情。なにも作業は全部終わった訳じゃない・・・。自分が一番分かっているはずなのに、自主性が全く感じられなかったのが悲しいところです。
コリドープロジェクトの難しさを感じる一瞬でした。IREBの存在価値はいったい何なのか、考えたこともないのだろう、きっと・・・やれやれ・・・。「測定は終わってないだろう今日も行くよ」と言うと、「戻ってくる」といって帰っていった。着替えに戻ったのでしょう、きっと。小一時間は待ったと思います。作業員が戻ってきたので二人で出かけました。話を聞くと43歳、5人の子持ち。もっとしっかりとしてくれないと困るんだよなぁ・・・。だいたい、ソープレター一族とボッソウ村を二分するくらいの家系の人間なのだから誇りを持って欲しいのだけれど、仕事に自主性はないし、すぐに物をねだる・・・困ったものです。
現場に着いて、「何処まで測ったの?」と聞くと、一昨日に測定をしていた(酒代を渡した日に測定していたあたり)を指さし、「ここまで」と平然と・・・。昨日一日この人は一体何をしていたのだろうか・・・昨日は全然測っていないという事じゃないか・・・やれやれ・・・一昨日ぼくがマークを付け終わった区画までは何とか終わらせようと伝えると、「多いから無理だよ」の一言。たった二区画だし、一区画150~160本くらいのものです。高々300本程度。「これくらできるよ」といってさっさと測定を始めました。確かに暑くて大変だったけれど3時間程度で作業は終了。「もうこれで終わり」というと「酒が飲みたい」といいだしました。また始まった・・・こいつは一体誰のために仕事をしているのか、この仕事は一体何処が主体となってやっているのかが全く分かっていないらしい。これはボクの仕事じゃないむしろ君の仕事なんだ!!と強く言いたかったけれど、言わないことに・・・。「Seringbaraに飲みに行こう」とかいっているけれど冗談じゃない・・・「ボッソウに戻ったら飲み代を上げる。今は金を持ってない」と言って(本当は持っていたのだけれど)帰ることにしました。ボクだって疲れているし、明日の朝早くにはボッソウを出なければいけないのです。そのための準備だって必要なんです。研究所に戻ると小遣いを渡して作業員を帰しました。まったく・・・人が疲れていようが何だろうが関係なしに、訪れてきたり話しかけてきては金や物を要求する人が多すぎる・・・まったく、とても、非常に自分勝手な人たちが多すぎる・・・
研究所では体調を崩した清野さんが休んでいました。少し悩んでいたらしい・・・。彼女が長期滞在しているマハレ(タンザニア)ではトラッカー(こちらでいうガイド)の人たちとはとても距離感が小さく、もっと親密で、いろいろ悩みがあったりすると相談したりするくらいらしい。ところが、ボッソウでは、もしかするともう来ないかも知れないし、来たとしても短期の可能性も高いし、おまけに英語でもなければスワヒリ語(彼女はマハレでスワヒリ語を覚えて会話しているらしい)でもなく、ここで使われる言葉はフランス語だから、上手くコミュニケーションがとれない。何処まで距離を詰めて良いか分からないし、戸惑っているようす。ガイドの人たちは割に親切にしてくれるのに・・・といって悩んでいました。ボクは少ない経験だし、偉そうにはいえないけれど深く考えることはないし、相手も深く考えてものを言っているわけではない。仮に「今度はいつ来るんだ?」ときかれても、それは一種の社交儀礼にしか過ぎないのだから・・・彼女も抱えている悩みを話しただけでも少しは気が晴れたようでした。体調を崩した理由はそこにあったのかも知れない。
何かにつけて深く考えたりすると大変だよ、ここじゃぁ。あきらめが肝心だし、妥協が大切なんだ、残念だけれど・・・夕方、タチアナが帰ってくると最後の晩餐のためにビールを用意してくれました。山越先生は最後まで調査(昨日までイヤレに行っていたし、今日もゲイン山からブートン山に行っていた)にシンポジウムの打合せに、ガイド達のサラリーの相談にと忙しく、悪いとは思ったのだけれど、3人で先に乾杯することにしました。8時過ぎに山越先生が全て終わらせて帰ってきました。改めて乾杯。遅いけれど夕食の時間になりました。オクラを使ったHotな料理。それにビールと疲れ、そんなものが山越先生の胃にダメを押したのか、山越先生は気分を悪くしダウンしてしまったのです・・・山越先生と清野さんとボク。最もアフリカ慣れしていないボクだけが最後まで元気だったとは・・・。少し申し訳ない気もしたけれど、仕方のないこと・・・。明日の長旅、山越先生は大丈夫なのだろうか・・・夜、清野さんとコリドーについて少し話をしました。彼女がボクの立場だったら、いったい何のために来たのだろうと悩んだと思う、と言っていました。
彼女はきっとまじめなのでしょう・・・ボクとは違って。少なからず希望を頂いてきたのだから、ボクも少なからず失望したこともあったけれど、覚悟していたし、開き直っていました。何せここはギニアなんだから・・・日本じゃぁない。その分だけ、最後までボクが元気にいられたのかも知れないですね。真剣に失望し、怒り、悩んでいたらボクだって体調を崩したかも知れないですし・・・。
2006年9月9日(土)
一応、7時出発ということだったので6時に起きました。すでに多くの人が来ていました。研究所の守衛・警護ダウカのに服を上げるとうれしそうに「Merci」。山越先生は少し顔色が良くなっていて少し安心。今回のボッソウ訪問は一度もチンパンジーを見ることができなくてとても残念だったけれど仕方のないこと・・・。清野さんは山越先生とボクがいなくなることで心細そうにしていたけれど、それも仕方のないこと。タチアナも愚痴を聞いてくれる相手が減って寂しそう・・・最後に写真を撮って(そういえば清野さんが入った写真は撮らなかった)サヨナラを言ってボッソウを離れました。前回は、もしかするともう二度と来ないかも知れないと思っていたけれど、何故か今回はまた来ることになるんだろうという思いが心に浮かんできました。とても不思議な気分でした。その分、淡々と研究所を離れることになりました。もしかすると、前回の方がもっと親密な気がしたからかも知れないですね。いずれにしても、二度目のボッソウ滞在は終わりました。
8時半頃ボッソウを発つと、
10時10分頃にSeredou、
11時20分にMacenta、
12時頃にBofossou(?)を通過し、
15時20分にKissidougouに到着。
Kissidougouで昼食。
ガソリンスタンドの敷地内にあるレストランで食べました。牛肉を焼いた物とポテト。ここまでの道中、橋が流されている場所がありました。仮設の橋を渡ることに。丸太を川に置いて、その上に轍(わだち)の分だけ板を敷いた簡単な橋です。教習所の2輪車の練習のようなものです。脱輪したら終わり・・・ランクルの車幅だとぎりぎりわたれるかどうか・・・というくらいでした。とても大型のトラックなんかは渡れない。橋が復旧するまで何日も待つことになるのだろう。僕たちが行きしなに渡った翌日に落ちたらしいです。プラン通り事が進んだから良かったものの、予定がずれていたら仮設の橋ができるまで立ち往生するところでした。これだから雨季はこわい・・・宿泊は、復路はFaranahでした。クルマ所長はFaranahに戻ってきて「とても」うれしそうでした。知り合いに挨拶をしているときも生き生きとしています。ボッソウに行くときには、もしかすると嫌な顔をして出てきているのかもしれないです。ま、長期の出張になるわけだし・・・この前と同じホテルSOLIMA。夕食は例によってクルマ所長宅でした。家財道具が随分減っていました。大学から(彼が住んでいるのは大学教員の宿舎)追い出しをかけられているらしい・・・。かれは今は完全にIREBの所長専任だから・・・クルマ所長にはクルマ所長の事情があって大変そうでした。新しい家を建てていたのもそのためだったのでしょう。引っ越しの最中と言うことでした。山越先生は美味しそうに夕食を食べていました。どうやら体調は戻りつつあるらしく、一安心。夕食後はホテルに戻って、眠ろうとするが暑い。とても暑い・・・ボッソウの夜がとても涼しくて快適だったので、早くも懐かしい気がしました。

2006年9月10日(日)
8時過ぎにクルマ所長宅で朝食。キュウリと鰯(缶詰だと思う)のサラダとパン。そしてケンケルバ茶。なかなかの朝食。クルマ所長は当初、引っ越しの荷物をランクルで少し運んでから出発したいと言っていたが諦めたらしい。
9時半頃にFaranahを出発。道は昨日よりも良いがそれでもよく揺れました。そんな中でも疲れていたのか(昨日の揺れで首が痛い)、よく眠る。12時20分、Manouに到着。給油し(5500FG/l)、引き続き走る。ガイドのパキレはここの街の大学に通っているらしい(当然、住まいをこっちに構えていると思うけれど)。13時15分に昼食。最後の現地食(汁かけ飯)になると言って山越先生は食べていました。随分慣れたし、行きに食べたレストランよりも味は良いので食べるが、量が多いので残してしまいました。(ホントにこれで最後にして欲しい・・・汁かけご飯も飽きるし、美味しいとは言えない・・・)山越先生はほとんど食べてしまいました。完全復活。13時40分頃出発。クルマ所長は運転手に「疲れたのか代わりのドライバーはいくらでもいるんだからな○○(ボクの名前)はとってもとても運転が上手だったけれど、お前は・・・!!」と説教してからの出発となりました。しばらくの間、運転はとてもジェントルだったけれど・・・しばらくすると、元の荒々しい、思い切りの良い運転に戻っていました。14時45分Kindia、16時にCoyahを通過し、コナクリに近づく。16時半頃から大渋滞。このあたりから、ひどくおしりが痛む。固いシートに座り続けているからです。しばらくしてからこの渋滞を避けるために脇にそれる。どうやら道路建設予定地らしいが、まだ道路という様相は全くない。日本だとこのまま10車線の道路を作りそうな用地だが、雨のためにあちらこちらに穴が開いていたり、くぼ地ができていたりと大変。まるでクロスカントリーのように多くのクルマが右往左往して、追い越し追い越され、すれ違いクラクションを鳴らしあっている。そんなオフロードを抜けると突然の幹線道路。その道中、脇に伸びる線路に貨物列車が走っているのを見かけました。初めてのことだ、と山越先生も驚いていました。たしか、以前はバナナが生えていた線路じゃなかったかなぁ・・・。しばらく行くと、コナクリの高級住宅地(とはいっても道路は舗装されていなくて荒れている)に立ち寄る。クルマ所長の奥さんのお姉さんの何だかの何だか、とかいう遠い親戚の家らしいが、コメを届けに来たらしいのですこっちの人は収入のある人間にたくさんの人間がぶら下がるから大変です。その後、Bossouから同乗していた人を降ろして(誰だか知らない)、ホテルRocherに到着。18時を過ぎていました。自室でインターネットを使える環境を作ってもらい(セッティングに来た兄ちゃんは、いつもは愛想が良いけれど、ため息混じりでやっていた。そんなに嫌そうにしなくてもいいのに・・・)、メールのチェックなどを行って、19時半から夕食。ピザとビール。う~ん、これだけで十分幸せな気分になれる・・・

穴を避けるように右往左往する車達。そもそもセダンでこの環境は厳しいです・・・
2006年9月11日(月)
朝8時にRocherの4Fで朝食。9時半から例のギニア科学技術庁だかなんだかに出かけて報告。その後は、その場で30周年記念のシンポジウムの打合せ。細かいことだと思うけれど、いろいろ話をして14時。その後、高等教育庁だか何だかに挨拶にいって昼食。昨日が最後の現地食だと思ったけれど、ここで最後の(そう願いたい)現地食になりました。コナクリまで来て汁かけご飯とは・・・ご飯と汁が別れて出てくるところは何となく都会的だけれど(カレーライスのカレーとご飯が別々に出てくるようなもの。結局同じもの)・・・。味はそれなりではあったけれど、もう飽きた・・・というのが正直なところでしょうか。その後も挨拶回りがあったらしいけれど、ボクは先に帰って良いと言われ(山越先生が気を遣ってくれたのです)、ホテルの部屋でのんびりと過ごしました。19時半から夕食。今日は1Fのレストラン。あまり腹は減っていないが食べておかねば・・・焼き魚(単純に塩焼きしてもらったのだけれど(Soleとかいう魚だったと思う)とビールを頼みました。結構美味しかったんです、これが。「デザートは?」と聞かれたのだけれど、もう食べられないゲップ。。。部屋に戻って、ゆっくりとハイネケンを呑みながら、これまでの日記をタイピングして時間を過ごしました。いよいよコナクリ最後の夜(のはず)。明日の夜には飛行機の中(のはず)。予定通り飛べば、明後日の朝にはパリ(のはず)。長かったような、あっという間だったような・・・ちなみに、soleは辞書を引くとシタビラメだった。旨いはずですね・・・

2006年9月12日
いよいよギニア最終日です。ボクはコナクリにいても、はっきり言ってすることは皆無です。しかし、山越先生は用事がある・・・ホテルの滞在延長をして、昼過ぎまで部屋で過ごすことになりました。その後は、金魚の糞のように先生の後について回るだけです。シンポジウムの会場の予約に行きました。交渉の場に一緒にいても仕方がないので、ボクはホテルのBarでビールをひっかける。(何だかコナクリに来てからビールばっかり呑んでいるような気がするなぁ・・・)その後は、空港へ向かう。相変わらず空港への道はめちゃくちゃです。ハイウェイのような道幅を、多くの人がわたっているし、舗装はめちゃくちゃ。空港に着くと、早々にクルマ所長と別れて、中に入る。前と比べると、整然としていました。拍子抜けするくらいでした。もちろん、出国手続きをしていない人も平気で待合いロビーに入ってくるけれど、待っている人たちが落ち着いていました。しかし、今回は山越先生と一緒だから、(ギニアに通っておられるのでエールフランスのマイルはゴールドかプラチナである)ラウンジに入る。そうです、ギニアにもラウンジがあるんです。もちろん飲み物はサービスです。また、ここでビールを呑む。搭乗時間の直前にラウンジを出て、ゲート前で待つ。この前のときには、搭乗のアナウンスがある前から行列ができて、カオスのような状態になっていたのに、今回はなぜか整然と列を作って、行儀良く進んでいく。何なんだ、この違いは・・・もちろん手荷物検査をして、飛行機に乗り込む。人数確認もスムーズにいって、最後に殺虫剤を噴霧してできあがり。この前は、一人の客室乗務員につき4本の殺虫剤を噴霧していたけれど、今回は2本。これも少し物足りない気がしたのはボクだけでしょうか・・・全体的に、前回のカオス度合いからすると、何かとおとなしくなっていたような気がする。これはボクがギニアに慣れたからか、本当にギニアのカオスレベルが低くなったのか・・・とにかく、そんなことで無事ギニアを出ることができたのです

2006年9月13日
コナクリからは、例によってパリ経由で帰国することになっていました。今回は後ろの予定が詰まっているということもあって、パリで滞在することなく直行で日本へ向かいます。しかし、コナクリからの飛行機は朝6時半に到着。パリの出発は13時45分。中途半端に時間があるのです。しかし、この程度の時間だと入国手続を行って、パリ市内に出て行ってもできることはたかが知れているます。残念ですが・・・ということで、入国手続もせずに搭乗口付近の免税店をウロウロすることにしました。免税店と言っても6店くらい。おきまりの香水・タバコ・アルコール・貴金属などを売っている店を含めてこの店数だからみると言ってもねぇ・・・結局、コンビニとBarの中間のような店でサンドイッチとビール。(またビールかと思われるかも知れないけれど、せめてビールでも飲んでいないとやっていられないという気分になってしまうのでです・・・)を胃に流す。その後は、少しだけお土産を物色して、時間をつぶすために本を買いました。本と言っても英語かフランス語の本しかないから、読んだことがある本の英語版を買いました。内容を知っているから分からない単語があっても読み飛ばしていっても問題ないからです・・・残念ながら外国語が堪能ではないので・・・ま、これが睡眠を誘ってしまったので、搭乗直前まで若干の時間、リュックサックを抱えて眠ってしまいました・・・
後は飛行機に乗り込んで、映画を観たりすこしウトウトしたり、超退屈したりしている内に日本に着くことでしょう。


2006年9月14日
ようやく帰ってきました。あの混沌の国ギニア共和国から・・・関西国際空港に着くと、多くの報道陣とファンに迎え入れられました。
といっても、ぼくのファンでもないし、ボクの帰国を全国の皆さんにお伝えするために多くのカメラマンや音声さんがいたわけではありません。(言わなくても、わかって頂けるとは思うのですが。。。)パリから帰ってきた同じ飛行機にマドンナが搭乗していたらしいのです。あの、マドンナです。一瞬、報道陣をみて「ぎょっ」としたし、どういう行動をとったらしいか迷ったのですが、警備員に、「はやく通路をあけて」みたいなことを言われました。ボクだって搭乗客だったのに・・・
さすがにファーストクラスに乗っていたのでしょう。彼女をみることはありませんでした。ファンの人だかりをかき分けてまで観に行く気もしませんでした。(でも、関空の出迎えたファンはせいぜい数十人で少なく、キャーという歓声も微妙にむなしくロビーに響いていました)
何はともあれ、元気に帰国できたことをまずは報告致します