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日本経済新聞(夕刊)2005年9月2日
心の進化 松沢哲郎さんに聞く

「現代人は祖先の猿人が持っていた記憶能力を失っているかもしれない」

 愛知県犬山市にある京都大学霊長類研究所。広い飼育施設で松沢さんが「フーホーフーホー」と大声を張り上げる。すると樹の茂みや鉄塔の踊り場で休んでいた十四頭のチンパンジーが呼応してほえ始める。チンパンジーを丸ごと理解するのが究極の目標というだけあって、チンパンジーになりきり彼らの言葉、しぐさで働きかけ、意図した行動を引き出してみせる。
 アフリカで野外観察もするが、日々の相手は28年間つき合ってきたメスの「アイ」と五年前に生まれた息子「アユム」の母子だ。数字や図形で記憶力を試す実験を繰り返す。チンパンジーはヒトに最も近縁の動物。ヒトとチンパンジーは進化の過程で共通の祖先がサルからたもとを分かち、約五百万年前にそれぞれの種に分かれていった。進化の隣人を探ることで共通祖先に迫り、そこから人間を見つめ直している。
 「動物の知性というと、大抵の人は人間だけが特別に賢いと考えがち。しかし、チンパンジーの記憶力には驚きます。アイが四歳のころ、数字や図形を覚えられることを初めて示し、大きな反響を呼びましたが、いま、それは珍しいことではありません。アイだけでなく、他のチンパンジーも覚えられます」
 「アユムは母親より、大学生よりも優れた記憶力を示します。パソコンの画面に6つの数字をバラバラに配置して0.2秒だけ見せて、数字順にその位置をなぞらせると正解率は大学生で70%程度なのにアユムは75%。チンパンジーには引き出せばそれだけ深い知性があります。
 「数字を記憶するというのは、数万年の歴史を持つホモサピエンス、つまり人間が獲得した知性とみられてきました。共通祖先を持つチンパンジーにその能力があることを考えると、約四百万年前のラミダス猿人などの人類の祖先も、すごく記憶力を持っていたと思えます。ひょっとすると我々は、そういう記憶能力を失っているのかもしれません」

「人間の心は進化の産物です」

 知性だけが関心事ではない。見極めようとしているのは「心の進化」。身体の進化は化石でたどれるが、形のない心となると化石があるはずもない。そこで心、つまり知情意の原風景をチンパンジーに探り、共通祖先の振る舞いや認識を推測し、進化の過程をたどろうとしている。
 「チンパンジーには心という側面で人間に似たものを見ることができます。喜怒哀楽の喜や怒、楽は当然のことながら、悲しむという点でも病死した子供の遺体をミイラになっても抱き続けたり、親と離れて鬱状態になったり、親が死んだ精神的なダメージから食べ物をとらずに二週間で死んだ子供の例とかがあります。こんな例はサルではまずありません」
 「人間との違いを探すとすれば、泣かないという点ですかね。チンパンジーも涙がないわけではないが、悲しみで涙を流すことはない。それとチンパンジーでは子供が親の顔色をうかがうということがない。親のまねをして石でナッツ割りをしようとして親の顔を見ることもないし、割れた後も得意げに親にそれを見せることもない。人間の場合は、幼い子供がものごとをするときに親の顔色をうかがったりしますよね」
 「知情意のうち、調べにくいのは意、つまり意志です。知性はある程度、研究しやすいから研究が進む。しかし、意志は研究しなければならないのは分かっていても、どう示すのか難しい。未知な分野だから、やがては研究されるでしょう」

 「知識伝達で重要なのは親子の絆です」


 心という点で言えば、幼児虐待や子殺し、親殺し、政治的な権力争いなど、社会的に関心の高い問題もある。だが、その対比には関心がない。子殺しも権力争いもいろんな動物に共通して見られる現象と一蹴する。チンパンジーでも人間でも、群れや社会を見る目は進化という脈絡から外れることはない。
 「進化を進歩と勘違いするヒトもいるようです。人間は進歩し、高等になっているように誤解もしている。我々の生活は向上しているし、できないことができるようにもなっている。しかし、人間としては現代人も四千年前の縄文人も同じ。縄文人を現代につれてきても、パソコンは使えるし、携帯電話だって使いこなすはず。人間も動物の一種であって、種が変わるには何十万年も何百万年もかかる。心は進化の産物という意味は、人間もそう簡単には変わらないと言うことです」
 「この十年でチンパンジーの群れがそれぞれ文化を持っていることが分かってきました。地域によって石器を使ったてナッツを割ったり、特定の葉を使って水たまりから水をすくったり、と言うように道具仕様で異なる文化があることが分かってきています。こうした文化伝承で重要な役割を果たしているのが、親子の絆、中でも母子の絆です」
 「チンパンジーは誕生後に子供がいつも母親にしがみついている。五年間は母親にべったりです。アユムたち子供は、この情の結びつきがあって母親の知識や技術を習得している。人間の場合はというと、幼児は常時抱きかかえているわけではないが、声かけという形で常時、親子の絆が保たれている。チンパンジーを見ても人間を見てもこうした絆が文化を伝える基盤になっている。価値観形成に初期の親子関係や教育が重要なことを改めて感じます」
 教えることに興味があってアイに人間の言葉を覚えさせることから始まった研究。いまは、アイから「教育」の原点を探ろうとしている。